今日、2019年8月24日は、電脳少女シロちゃんの二周年生誕祭があった日だ。
いま、まさにその生誕祭から帰ってきたそのままに、この記事を書いている。
私は今日この日を一生忘れないだろう。
これはレポート記事の体裁を取った、溢れ出る感情を書き殴ったポエムだ。
曲のこと
今回の生誕祭で、おそらく一番みんながわくわくしていたのは、シロちゃんのオリジナルソングが発表されるということだろう。
シロちゃんは「アイドルを目指しています」と言いつつも、公の場で歌を披露する機会は非常に少なかった。
去年の生誕祭以前では、動画内でたまに歌い出すことはあっても、歌動画や歌イベントといった形を取ることはほとんどなかったと思う。
www.youtube.com
この動画が唯一の歌動画だが、あまり歌うことに慣れていない様子が見て取れる。
そんなシロちゃんだったが、去年の生誕祭でいくつかの曲をカバーして以降、シロちゃんは公式の場でも少しづつ、歌う側として出演するようになっていく。
生誕祭の二週間後には、バーチャルカラオケでファンの心を鷲掴み、
昨年11月にはニコニコ超パーティーに出演し、千本桜を熱唱。
今年の4月にはアニメ「バーチャルさんはみている」の特別ライブで、ソロ曲こそ歌わなかったものの、バーチャルリアル(ユニット名)のみんなと歌って会場を湧かせた。
そういった、ある意味焦らされてきた状況だったからこそ、この二周年という節目にシロちゃんがオリジナルソングを出すことには、大きな意味があった。
シロちゃんが最初の動画から言い続けている、「アイドルとして、武道館で、コンサートをする」という夢を叶えるためには、オリジナルソングがあったほうが良いということを、誰もが分かっていたからだ。
シロちゃんの歌声は、明らかにどんどん上手くなっていっている。
去年の生誕祭のときも強く感じたことだが、明らかに練習しないと出せない歌唱力の向上を、シロちゃんの歌声を聞くたびに感じる。
そのこともあって、今年の生誕祭、そこで発表されるオリジナルソングについて、私は非常にわくわく、楽しみにしていた。
叩ケ 叩ケ 手ェ叩ケ
生誕祭が始まった直後、いきなり披露されたのがこのオリジナルソング、「叩ケ 叩ケ 手ェ叩ケ」(作詞作曲:ヒゲドライバー)だ。
アップテンポな曲の中に、シロちゃんの名言、語録がこれでもかと詰め込まれていて、それでいて曲の構成は非常に単純。
間違いなく全員初見のはずなのに、私も含めて全員ノリノリでコールしながら光る棒を振りまくった。
シロちゃんの勢いある(酷い言い方をすれば、ブッ飛んだ)性格を完璧に表しつつ、初めて聞いた人でもすぐにノレる配慮も効いた良曲。
会場のテンションは一気に最高潮に達した。
46
そして生誕祭終了間際、フィナーレとして披露されたのがこのオリジナルソング、「46」(作詞作曲:ひかげ)だ。
先ほどとは打って変わってシンプルに「カッコいい」曲。メッセージ性の強い歌詞に流れるような英語詞、ちょっと低めからかなり高いところまで幅広い音域。
シロちゃんの格好いい部分を凝縮したような曲で、会場は大盛況。オリジナルソングが2曲あるとは知らなかったので、サプライズ性も相まってファンは感激していた。
またあした
ところがさらにもう一曲。アンコールに応え、舞台に上がったシロちゃんが着ている衣装は、これまでに見たことのない新衣装だった。
そして、「これが本当に最後の曲です」と言って始まったのが、この「またあした」(作詞作曲:相原みずき)だ。
「空は果てもない青の先」「灯りを紡ごう、君と手をつないで」「私は変わらずここにいるから」「またあした」と、シロちゃんがファンやVTuberたちと一緒に成長しながら、毎日動画投稿を続けてみんなの心の支えであり続ける様子が歌われる。
実はこの曲、この日のために作られたオリジナルソングではない。
作曲した相原みずきさんが、昨年の生誕祭に際して投稿したファンアート楽曲なのだ。
アンサーとしてのオリジナルソング
私はこの曲を聞いて、昨年の生誕祭のことを想起した。
シロちゃんが昨年の生誕祭で披露した曲は、私の記憶が正しければ3曲。
「太陽系デスコ」、「極楽浄土」、そして「君の知らない物語」だ。
いずれも、当時のシロちゃんと非常に深い関係がある。
「太陽系デスコ」「極楽浄土」は、当時様々なVTuberのMMD動画が盛んに投稿されている曲だった。
シロちゃんのMMDも例に漏れず投稿されており、シロちゃんのMMD動画の中でも屈指の人気を誇る二曲であった。
(極楽浄土については、↓こっち↓を貼ったほうが適切かもしれない。
www.nicovideo.jp
この動画に本人がアフレコ(???)した動画が存在するからである。)
すなわち、シロちゃんにとってこの二曲を歌うことは、「ファンの投稿した動画をちゃんと観ているよ、ありがとう」という意味があったのだ。
「君の知らない物語」については、「親分」キズナアイちゃんが自身の誕生日イベントで最後の曲として選んだ曲であり、尊敬の意味を込めたオマージュであったと言えるだろう。
live.nicovideo.jp
だが、これだけではない。
「君の知らない物語」の歌詞は、去年のシロちゃんにとって、似合いすぎるほど合っていた。
「灯りもない道を、馬鹿みたいにはしゃいで歩いた」
「抱え込んだ不安や孤独に、押し潰されないように」
「いつからだろう、君のことを追いかける私が居た」
そして、シロちゃんが歌詞改変をした部分。
「真っ白な一つ隣の君」「私は、何も言えなくて」
去年の生誕祭の後半、シロちゃんが(正確には馬が、生誕祭という企画の脚本そのものが)訴えかけたのは、無垢な感謝や笑顔ではなく、「大変だった、諦めそうになった日もあった、でもあなたたちがいたからここまで来ることができた」という、努力と孤独の辛さ、それを乗り越えられたことに対する感謝だった。
生誕祭以降シロちゃんは、「みんなのおかげで、シロは自分が好きになれました」と繰り返し伝えている。それは勿論、かつてシロちゃんが自分に自身を持てず、何度も挫けそうになったことも如実に表している。
去年の生誕祭をきっかけに、「真っ白な君」に「何も言えな」かったシロちゃんは、自身の辛かった気持ちを打ち明けられるだけの強さと自身を手にしたのだ。
それらを思い出して、今年の生誕祭、そこで歌われた3曲が、去年の生誕祭への完璧なアンサーになっていることに気づく。
アップテンポでノリノリな曲、「叩ケ 叩ケ 手ェ叩ケ」は、誰もがノレる超人気曲「太陽系デスコ」に。
クールな格好良さの詰まった曲、「46」は、(アフレコMMDが無ければ)ある種妖艶な雰囲気を纏った名曲「極楽浄土」に。
シロちゃんがかつてカバー曲という形で表現した、シロちゃん自身の歌に込められる良さを、オリジナルソングという形で改めて表現し直している。
そして、最後に歌われた「またあした」。
先ほどとは対称的に、去年「太陽系デスコ」「極楽浄土」でシロちゃんが打ち出した「ファンの作ったものをちゃんと観ているよ、ありがとう」という強いメッセージを、今年はこの「またあした」で表した。
そして、シロちゃんの状況と歌詞に強い相関がある点は、去年の「君の知らない物語」と同じだ。
去年「真っ白な一つ隣の君」「私は、何も言えなくて」と歌ったシロちゃん。
そんなシロちゃんが今年歌う歌詞は、「灯りを紡ごう、君と手をつないで」「私は変わらずここにいるから」。
そして、イベントの最後に表示された、シロちゃんからのメッセージ。
「みんなが作ってくれた場所で ずっと待ってるから」
「どうかまた 会いに来てください」
人気の伸びない時期を半年間経験し、自身を失いつつあった一年目のシロちゃん。
そのシロちゃんの心の支えになったのは、他でもないファンの人々だった。
一度目の誕生日を迎え、自分の素直な弱さを見せられるようになったシロちゃん。
二度目の誕生日でシロちゃんが伝えるのは、「今度はシロが、みんなの心の支えになる」という強いメッセージだ。
オタク自分語り
恥ずかしげもなく自分語りをさせてもらうと、私は最近、シロちゃんに対する熱量を失っていた。
というとかなり嘘になるかもしれない。シロちゃんのグッズは欠かさずチェックしているし(ねんどろいどは保存用まで買った)、動画や生放送のアーカイブも全部観ているし、イベントもだいたい参加している。
少なくとも、日本人平均に比べれば圧倒的にシロちゃんが好きだ。
だけど、つい以前と比較して、落ち込んでしまう。
以前までの私は、もっとシロちゃんに対して熱意があった。パッションがあった。ツイッターでリプライを飛ばしても足りず、事あるごとにブログ記事を書いても満ち足りず、会う人会う人に熱く語っては引かれていた(もちろん相手は選んでいるけど)。
熱意が失われたことそれ自体も悲しい。
特になにか原因があったわけではなく、単に任意の感情に波があるというだけのことだと思うが、それでも永遠だと思っていた感情が引いていくのは悲しいし、虚しい。
そして、それ以上に悲しいのは、己の小ささだ。
熱意が失われた自分を念頭に置いてしまい、熱意あるファンの姿を見ていると、言いようのない辛い感情に囚われるのだ。
もう二度と、あの中には入れない、そう思ってしまうのだ。
伝わらないかもしれない。
たぶん、一度熱中して、冷めてみないと、わからないことなのだろう。
熱中している人たちを冷めた目で眺める、という話ではない。
熱中している人たちが排他的であると感じる、というわけでもない。
純粋に、自身との関係性の問題だ。
一度熱が冷めてしまったことで、もう一度熱中できる、もう一度、「永遠に好きでいられる」自分が想像できなくなってしまったのである。
この気持ちは、一度別の記事で書いたことがある。
そのときも、うまく言葉に落とし込むことができなかった。
だけど、その必要はなくなった。
シロちゃんが、歌に託して、はっきり言ってくれたからだ。
「例え、もう声が届かなくとも」「私は、変わらずここにいるから」と。
好きが続くかどうか、ではない。
いま好きかどうか、それだけ考えればいいのだ。
シロちゃんは、我々がちょっと立ち止まったくらいでどこかへ行ってしまうような存在ではなかった。
「みんなが作ってくれた場所」とは即ち、ファンとシロちゃんの間で作り上げてきた、シロちゃんという存在そのものだし、電脳少女シロというコンテンツそのものだ。
だからシロちゃんは、みんなで作ってきた場所だからこそ、自身を持って「自分が好きだ」と言えるし、自分を好きでいる人々を力強く肯定することができる。
その場所で、シロちゃんが「ずっと待ってる」のである。
一人のファンごときが、永遠に好きでいられないことを恐れる必要は、どこにもなかった。
永遠に好きでいられないなら、好きなときだけ好きでいれば良いのだった。
「どうかまた会いに来てください」とはつまり、そういうことだ。
それはシロちゃんらしい甘やかし方だし、シロちゃんらしい妥協の仕方だ。
「一緒に歩んでください」と言っていたシロちゃんは、2歳になって、「待ってるから、会いに来てください」と宣言した。
自分に自信がなければ言えない言葉だ。
1歳のシロちゃんが投げかけた、「辛いこともあったけど、みんなのおかげで乗り越えられたし、そのことを話せるようになりました」というシークエンスは、ファンがシロちゃんの心の支えになり、シロちゃんが自信を持つまでの物語だ。
そして2歳のシロちゃんが投げかけた、「みんなと作ったこの場所で、いつまでも待ってるから、また会いに来てください」というシークエンスは、成長したシロちゃんがファンを包み込み、ファンの心の支えになるまでの物語だ。
だから、私はこう思わずにはいられない。
シロちゃんの、電脳少女シロちゃんのファンで良かった、と。
終わりに
電脳少女シロ生誕祭2は、間違いなく最高のイベントだった。
シロちゃんの、馬Pの、メンテちゃんの、ガリベンガーVの関係者さんたちの、シロぐみさんの、不断の努力なくしてこの成功はありえない、というクオリティの、本当に素晴らしいイベントだった。
だからこそ私は、2歳になった3年目のシロちゃんの、次のイベントに、動画に、来年の生誕祭に、期待せずにはいられない。
今のうちから、一年後の生誕祭が楽しみでならない。
シロちゃんへのプレッシャーになるかも、なんてことは考えない。シロちゃんに対して失礼だからだ。
もうシロちゃんは、ファンを支えに成長するだけのキャラクターではない。
主体的・自覚的にファンの支えとなり、お互いに支え合って成長し合う、大切な存在なのだ。
シロちゃんが「みんなと作ったこの場所で、いつまでも待ってる」と言ったのだから、我々はそれを信じて、支えとすることができる。
そして、逆に我々も、シロちゃんに応援のメッセージを送り続けることで、シロちゃんの支えになることができる。
そういう関係で、そういう場所で、ずっと会い続けていたい。そう強く感じた。
明日も、シロちゃんは動画を収録し、公開するのだろう。
それは全く当たり前のことではなく、シロちゃんやメンテちゃんの不断の努力があって初めて成立するものだ。
だからせめて、そのシロちゃんの努力によって、私が日々を楽しく過ごせていることを、シロちゃんに伝えたい。
「またあした」と言える幸せを、心に刻みながら。