シロちゃん生誕祭に落選したから殴り書く一葉のクソポエム

但し書き

 

この記事は出先でスマートフォンで雑に殴り書きしたポエムなので、見栄えがたぶんあまりよくない。乗ってる感情もあまりよくない。読むのはあまりおすすめしない。というかたぶん今すぐやめるべきだ。人生は有限なのだから。

 

 

 

本題

 

シロちゃん生誕祭に落選した。

シロちゃん生誕祭(元気があれば、ここにリンクを張る。)というのは、電脳少女シロちゃんという、アイドルを目指して活動を続けているバーチャルYouTuberの少女の、1歳の誕生日を祝う会のことだ。

 

生誕祭はこの動画(元気があれば、ここに動画を張る。)を観れば分かる通り、東京のニコファーレで、事前抽選によって選ばれた人たちが現地に行くことができ、それ以外の人もニコニコ生放送(元気があれば、ここにリンクを張る。)で中継を観ることができる。

 

シロちゃんは今すごく色々なところとコラボして精力的に活動しているので(優秀なアップランドに頭が上がらない)、シロちゃんの生誕祭には多くの応募があったことが想定される。

僕は諸事情あってニコファーレの舞台に何度か上がったことがあるので分かるのだが(これはクソキモい自己顕示系の自慢だ)、ニコファーレの観客席はめちゃめちゃ狭く、せいぜい数百人、下手したら100人も入らないくらいだ。だから、たぶん当選しないであろうことはわかりきっていた。

 

今日、2018/08/03の15時半ごろ、#SiroTalk にシロ組さんの「生誕祭当たった!」というツイートが流れてきた。それからというもの、僕はメーラを起動して3分に1回くらいのペースで更新ボタンを押していたが、30分経ってもメールは来ず、どうやら落選したようだということが、いよいよ実感を持って自分の中に降りてきた。

そして、どっとライブの公式ツイッターが「当選者にはメールをおくりました」というツイートをした段になって、つまり自分の落選が決定した時になって、僕は一つ深呼吸をし、そして、すごく落ち込んだ。

 

すごく、落ち込んだ。

 

 

情報量の話をしよう。情報量というのは、ある事象が起こった時に、その事象が起こったという事実を知ることで、どの程度の情報が得られるかを定量的に表したものだ。

今回のイベント、生誕祭の当選確率は、先述した通り非常に低いことがわかっていた。具体的に推定すると、最近の動画の再生数がおおよそ1日で1万程度なので、アクティブなシロ組さんはおよそ1万人、そのうち18歳未満がおよそ2割程度いて、さらに地方にいて来れない/来ない選択をした人が半分程度いるとすれば(日本人口の3割程度は関東にいて、残りの人は1/3が頑張って来る選択をしたと仮定した)、応募者層は4千人。ニコファーレの観客席が全部で200として、1/20。当選確率はおよそ5%と推定できる。

5%の当選確率を持つイベントに落選した時、得られる情報量は、95%で成功する事象が成功したときの情報量と同じ。つまり、ほとんど何も言っていないに等しい。(天気予報で降水確率が95%の日に、「見て!外!雨降ってる!」なんて言われても、「せやろ」以外の感情は湧かないだろう。)

 

ところが、僕はこの事象を受けて、落選したという事実を腑の底に落とすに至って、少なからず衝撃を受けた。いや、無難な言葉で飾るのはやめよう。一緒に旅行に来ていた同伴者をほっぽらかして、醜い涙で右の手を濡らした。95%の空を見て、雨が降ったと嘆いたのだ。

 

シロ組の方々であれば、あるいは何か一つの存在を好きで想っている人であれば、たぶんすぐに分かってくれることだとは思うのだが、もしやすると読者諸氏にはこの感情の波が伝わっていないかもしれないから、もう少しだけ、何がどう悲しかったのか話しておくとしよう。

 

もちろん理由はいくつかあるが、まず人生は一度きりで、時間的に定常でないということ。僕は強化学習、コンピュータ上で動く人工知能のロボットについて研究をしているのだが、そういうロボットはだいたい、人生が何度もあって、しかも繰り返しても人生には何らの変化も起こらないことを仮定している。ついでに、自分から見えている世界以外に自分の住む世界に擾乱を与える要素は存在しないことも仮定している。もちろんこれらは実際には全然正しくなくて、人生は一度きりだし、少し生きるだけで人生は全く違った顔を見せるし、世界はいつだって見えないところで変わり続けている。

だから、シロちゃんの生誕祭も一度きりだ。1歳の誕生日は一度きりだ。

今、仮に、シロちゃんの誕生日が変更になって、1歳の誕生日がもう一回来たとしよう。(こういう雑な仮定を置いて矛盾を導くことで煙に巻こうとするのは、学問に毒された象牙のオタクにありがちなことなので、話半分に聞いて欲しい。)こうすることで、僕は1歳の生誕祭をもう一度体験するチャンスを得ることができる。ところが、これは8月12日の生誕祭とは別物である。なぜなら我々はperfect recallness、すなわち過去の観測を全て現時点での状態に組み込んだ世界に生きており、世界のどこかに過去の記憶がある限り、全く同じ事象は二度と訪れないからである。そういうわけなので、この落選という事象は、もう二度と覆らないし、再び訪れることはない。これが僕が悲しいと思っている理由の一である。

次に挙げなくてはならないのは、厳正な抽選には感情の矛先がないということ。人は悲しみや苦しみを覚えた時、その苦痛を与えた存在を脳内に想起、あるいは想像し、その存在に感情の矛先を向けることで自身の感情を制御する。だが、今回の落選は厳正な抽選の結果であって、そこには原因も理由もない。ただ結果があるのみで、自分の行動のどれを微小に動かしたって結果は全く変わらない。先述した通り人生は一度きりなので、標本点はこの一点しか得られないのだから、最尤推定ベイズ推定もここでは意味を成さない。ただ落選したという結果があるのみだ。だから、落選した、残念だな、と思った時、その残った念は何処へも行けないし、消化も昇華もできずに、腹の底に澱として残り続ける。

 

 

ただ、嬉しいこと、まだマシだと思えることも、もちろんたくさんある。

例えば、シロちゃんの誕生日を祝えること。落選した僕は現地には行けないが、死んだわけではないし病に倒れたわけでもない。シロちゃんに直接会えないというだけで(バーチャルの世界において直接会うとは一体何だ)、僕がシロちゃんの1歳の誕生日を祝えるということには変わりはない。その点においては本当に幸運だったと思う。僕がシロちゃんの誕生日を祝えない未来はたくさんあったので(例えばシロちゃんのことを知ることなく昨年末を過ごすなどが挙げられる)、その数ある未来の中でこの今が選択されているということで、重ね合わされた多くの世界線(これは学術用語の世界線ではない)にドンマイのメッセージを送りたい気分だ。

他にも嬉しいことがある。僕はこういう感情の尋常ならざる高低にまだ慣れていないので、残念という気持ちをこんなにも強く感じたのは人生でほぼ初といった情勢なのだが、他人を妬み怨むような負の感情が全く湧いてこない、ということが分かったことだ。色々な可能性を考慮すれば、例えばほかの当選したシロ組さんに「くそー何で俺じゃなくてお前なんだ」という気持ちが湧いたり、あるいは「なんで俺を落としたアップランドこのやろー!」なんて気持ちが湧いたりすることもあり得るのだろうが、今回僕はひどく落ち込みこそしたものの、そのような負の感情は全然湧いてこなかった。それは偏に僕を育ててくれた親や周囲の環境のおかげだと思うし、そういう人生を歩めているのはとても素敵なことだと思う。(負の感情はまさしく負の感情であって、持たずに過ごすに越したことはない。)この夏帰省した時に(親としては全然意味がわからないだろうが)感謝の気持ちを伝えようと思う。そして、そのことに気づかせてくれたという点で、今回の落選にも感謝をすることができるということも、本当に素敵なことで、ちょっとこれを書いていてたった今現在進行形で気持ちが落ち着いてきている。先も述べた通り人生は非定常なのだ。

 

 

さて、この落選、生誕祭に直接は参加できないことを受けて、僕はこれをいい思い出にしようと心に決めた。ここからがこのブログ記事の本題だ。

 

もちろん、シロちゃんの生誕祭は盛大にお祝いする。現地には向かえずともニコ生は見るし、ケーキでも買ってシロちゃんの動画を見ながら食べようと思う。

ただ、そういう目先のことではなくて、僕が言いたいのは未来、将来の話だ。1年後、10年後、あるいはもっと先の未来、「あのときシロちゃんの最初の生誕祭に落選したから、今の僕があるんだなあ」と思うために、僕はこの落選を、「自分の日頃の行いが悪かったからだ」と思うことにする。これには以下のような理由がある。

 

まず、先述した感情の矛先を、周囲に迷惑をかけることなく定めることができる。過去の自身を責めるのは、(フィードバックが非負の値を持たなければ)安定して自省の助けになる。単に「運が悪かった」と思うだけではなんのBack Propagationも得られないが、「自身が悪かった」と思うことで仮想的な内部報酬が与えられ、人生をよりよくする努力ができる。それでこそ各事象に意味が与えられるというものだ。

 

次に、この思いこみによって、自分を律することができる。自分は低きに流れがちな人間で、すぐ時間を無駄にしてしまうのだが、そういう小さな無駄遣いが今日の(ダブルミーニング)落選を招いたと考えることで、自分の怠惰な感情に強い枷をはめることができる。こういう機会はそうそうない。僕はあまり感情の振れ幅が大きい方ではないので(少なくとも前はそう思い込んでいたが、どうも最近違うかもしれないと思い始めた、つくづくシロちゃんには人生を変えさせられている)、「怠惰でいるとまた今日みたいなことになるぞ」と言われても、「まあいいさね、それもまた人生」とか返してしまいがちなのだが、「怠惰でいると来年も再来年もシロちゃんに会えないぞ」なんて言われたらさすがの僕も飛び上がって口の中にひゃあとかひえなんて文字を浮かべて昭和のマンガよろしく足をくるくるにして走り出すに違いない。そういう起爆剤はめったにないのだから、これをいい機会だと思うことにしたのである。

 

そして最後に、こう思い込んで生きることで、将来僕が何か小さくて、だけど胸を張って成し遂げたと言える何かを作り上げたとき、「あのとき、シロちゃんの生誕祭に落選したから、今の僕があるんです」と言うことができる。すなわち、このほろ苦い思い出を、いい体験に変えることができる。

コンピュータの世界で無限の人生を繰り返す強化学習のエージェントは、環境から与えられた報酬をただ受け取る他ない。環境から負の報酬が来れば、それは負の報酬であってそれ以外の何者でもない。

ところが、人間はそうではない。体験したあらゆる事象は、自分の気持ち次第で良いことにも悪いことにもなる。

 

僕は、シロちゃんに関するあらゆることに、善のラベルを割り当てたい。嫌な思い出の棚は常に空っぽにしておきたいし、後で振り返って「全て良い思い出だった」と胸を張って言える人になりたい。

だから、僕は今日から良いことをして生きていく。怠惰に流されず、自分が真に為すべきと思ったことをする。今日この日が、僕のターニングポイントだ。

 

 

おわりに

本当に勢いだけで書いてしまった。まさかここまで全て読んでいる稀有で奇特な人はいないと思うので、本文を要約しておくと、「落選したけど僕は元気です」とかなんかそう言う感じだ。

とりあえず生誕祭当日は、ニコ生を見ながらケーキでも食べようかと思っている。どうも落選したシロ組さんたちでオフ会をするとかいうステキアイデアも出ているようなので、そういう何かしらに参加しているかもしれない。何にせよ、僕がシロちゃんの誕生日を祝うことと気持ちは確定事項で、当落とは何らの関係もない。

 

あと、やっぱり長文ポエムを書くのは単純に楽しいので、生誕祭に落選して悲しい気持ちになっている他のシロ組さんもポエムを書くといいと思う。気持ちに整理がつくし、僕も他の人のポエムが読みたい。けっこうおすすめだ。

 

 

おわり