【日記】修士論文とサステイナビリティ

まえがき

ブログは元来 weblog、すなわち web 上の log という意味を持っている。
log というのは記録だから、つまるところブログというのは「ウェブ上に書く日記」という意味の単語だ。
ウェブ上に書く日記は、定義から自明に日記である。

ところがぎっちょんこのブログ、よく見ると意味わからんポエム記事か数学記事しか書いていない。
だいたい電脳少女シロちゃんのことか、あるいは私だけがオモシロイと思っている数学の問題についての記事を書いているのである。

そういうわけで、今日は web 上の log、すなわち日記を書いてみようと思う。

修士号のこと

先日、修士論文を提出した。
修士論文というのは、大学生がよく書いている卒業論文(あるいは卒業研究、あるいは卒業制作)の大学院修士学生バージョンである。

聡明な読者諸氏は当然ご存知かと思われるが、世の中には二種類の人間が居て、そのうちの片方は大学を出ても学生を続けている。大学院生である。
小学生は勉強をして、中学生は勉強をして、高校生は勉強をする。大学生も勉強をする。しかるに大学院生は何をするのかというと、勉強もするのだけれど、主には研究というものをする。

研究とはなにか。よくわからない。何やら新しいことをやるのだけれど、何が新しいのかもわからないところから始まって、色々調べて何かを思いついて、だいたいそれが新しくなかったことを後で知ることになる。とにかくよくわからない。
よくわからないことを、修士学生という存在は好き好んでやって取り組んで、ウンウン唸りながら二年間掛けて何かしらの糞をひり出す。これが俗に修士論文と呼ばれるブツである。


修士学生は、研究がやりたくて修士学生になっている。
研究がやりたくなければ修士学生なんてやめてしまえばよい。実際休学からの退学をキメている人もいる。やりたくないことをやめるのは逃げではない。
つまりあらゆる修士学生は研究がやりたいはずである。

ところが研究は辛い。意味わからんくらい辛い。
時々面白かったりエキサイティングな気持ちになったりすることもあるが、大体は疲れた脳の見せるまやかしであり、冷静に考えたらおうちでゴロゴロゲームをしているときの方が100億倍くらい面白い。結局のところ研究は辛い。
何が辛いかというと、主に己の無力さを痛感することになるのが辛いのだ。


研究の主なサイクルは、問題設定・仮説立案・仮説検証・論文執筆の4つで構成される(この4つの間に適宜調査(survey)が可算無限回挿入される)。
この4つのうち、どれが欠けてもいけない。

問題設定があやふやな研究は、どう書いても結果にインパクトが出ない。
仮説立案が甘い研究は、アブスト(あらすじ的なやつ)を読んでもすっきり来ない。
仮説検証が雑な研究は、どこが良くてどこが悪いのかわからないので、使いみちがない。
論文執筆が下手な研究は、伝わらないので意味がない。

研究の世界では、この4つをうまいことくるくる回して、ダメそうならさっさと撤退して次のサイクルを回し、時には複数のサイクルを回しながら世に成果をパブリッシュしていくことになる。
修士の辛さはここにある。

修士学生は、研究界では幼稚園児である。
何も知らないし何もわからないので、地面に落ちている絵本を読んだり、大人たちが議論しているのを聞いたりして、なんとなく研究界のルールを知っていく。
研究界に義務教育はない。もっと言えば、社会もない。あるのは学会である。幼稚園児も近所の大人も、大臣も村の長老も平等に名前を隠して論文をパブリッシュする自由と平等の学会である。

幼稚園児は足りない知識を元に、あやふやな問題を考え、甘い仮説を立て、雑な仮説検証をする。
そしてこのあたりで小学生になる。

仮説検証の段階で、初めて気づくのである。「この研究は、何かがおかしい」。

実のところ、この気付きは間違っている。
何かどころではなく、すべてがおかしいからだ。

気づいたときにはもう時間がない。次のサイクルが迫っている。いや別に何も迫っていないのだが、修士学生は小学生なので、一度根本から考え直すという発想がない。
小学生にしてはよくできているので、先生も先輩も特に何も言わない(実のところ、さっさとサイクルを回す練習をしたほうが成長が早いだろうことを、先生方はよく知っているのである)。

とりあえず、次の段階、論文執筆をすることになる。下手な論文執筆だ。
論文を書いているうちに、気付きは確信となる。この論文、ショボい。クオリティが低い。インパクトも内容も、理論的背景も筋もない。
自由と平等の学会は、小学生の君にこう告げるだろう。"We regret to inform you that ..."。

次のサイクルもだいたい同じである。
小学生は中学生になり、仮説検証のあたりで小学生時代の行いを悔いる。
論文はそのへんの国内ワークショップで発表され、十数分の口頭発表と数分の質疑応答を以てその短い論文生命を終える。


修士学生はこの辛いサイクルを乗り越え、少しづつおとなになっていく。
高校生になった君は、もう同じ間違いを繰り返さないと意気込むだろう。

大変結構なことだ。
では修士論文を書こう。


修士論文を書こう。
つまり、幼稚園時代からこれまでの振り返りまとめペーパーを書こう、ということである。
あの右も左もわからなかった頃の、成果とも呼べないような萎びて腐った果実を、箪笥の奥から引っ張り出して並べて晒せということである。


想像してみてほしい。
君は今、人生の卒業論文を求められている。
君が書かなければならないものは、過去に君が威張っていたあやふやな何かをまとめ、それらを一本の線で結び、それらに意味と正当性を与えるペーパーだ。
君が目を背けてきた、過去の悍ましい黒歴史を、修士題目の支柱に刺してひとつのものにまとめ上げるペーパーだ。

「中学時代、右腕に包帯を巻いていたようですが、何か理由があったのでしょうか?」
「はい、それは昨年行ったボランティア活動に関係しておりまして、将来ボランティア活動を行った際に右腕を怪我していては満足に遂行できないと考えたため、当時予防として包帯を巻いておりまして、……」

こういうことだ。

新手の地獄とかではない。
修士論文である。


結局何がいけないのかというと、人間の成長スピードが早すぎるのがいけないのだ。
成長が早すぎて、過去が現在進行系で黒歴史になっていく。後悔は先に立たず後にどんどん立っていく。
そういうのはだいたい綺麗さっぱり忘れるのが精神衛生上良いのだが、修士論文がそれを許してくれない。

修士論文を執筆するというのは、過去の黒歴史と真正面から向き合う行為なのだ。

長すぎて読まなかったよ

修士、ツッレェ~!
研究やってる間に新しい知見が得られて過去の自分が雑魚に見える現象、多すぎィ!
なのに過去の結果をまとめて一本の論文にしろ、なんて言われちゃって!
あたし、これからどうなっちゃうの~!?!?

失われたシャングリ・ラ

ツッレェ修士論文を書く上で、犠牲になったものがひとつある。
それは、趣味、あるいは趣味への熱意である。

私は以前から表明していたとおり、電脳少女シロちゃんのオタクである。
いや、オタクであった。

険しい修士論文を書いている間、私はシロちゃんの動画を意識して見ないようにしていた。
それは単に時間を取れなかったというのもあるが、自分の心が、シロちゃんへの熱意が少しずつ冷めていくのを直視したくなかったからだ。

物事を楽しむには体力が要る。これは別に楽しむと物理的に疲れるからという話ではなく、体力がないと心から楽しむ余裕がなくなるからだ。
人間は不合理な生き物だから、疲れるとその疲れを癒やす体力まで失くしてしまう。そして、その失われた気力でかつて楽しかったものを見ると、まるでその対象が楽しくなくなったかのような錯覚を受ける。
変わったのは自分であって決して対象ではないのだが、相対論によって変化は他者に帰着され、そうしてますます楽しくなくなっていく。
こうなってしまったらもう手遅れで、もう疲れているから楽しめないのか、楽しめないから疲れているのか、わからなくなってしまう。そうして二度と戻れなくなる。

私はかなり早いうちに、このフェーズが訪れたことに気がついた。そして、簡易的な対策を打った。「とりあえず、今楽しいものから一旦離れる」という対策である。
私は本土決戦をいち早く察知し、自分の大切なものをぜんぶ、水も食料もランタンもぜんぶ地下の隠し穴に叩き込んで、その重い蓋を閉じたのである。


かくして本土決戦は終わり、終戦の日がやってきた。私の論文は受理され、(たぶん)私は修士号を得た。
私はわくわくしながら、錆びついた地下の蓋を開けた。


手遅れだった。
しばらく見ないうちに、私の熱意の灯は消えてしまっていた。


シロちゃんの動画を観ても、「かわいい」とか「面白い」とか月並みな感想は出てくるが、以前のようなパッションが湧いてこない。
「この動画を皆に広めたい」「この可愛さを全世界に知らしめたい」「でも同時に自分だけがこの可愛さを知っていたい」、そういう根源的な欲求が湧いてこないのだ。
私のオタクとしての生命活動は、このときを以て停止した。……死んだのだ。

しばらく観ないうちにシロちゃんは、プレミア公開というシステムを利用して22時に動画を投稿するようになっていた。
チャンネル登録者数も増えていた。テレビ番組も増えていた(!)。

ついていけない、とかそういうことではない。
以前の私だったら、歓喜して片端から視聴していたと思う。あるいはもっと以前の私だったら、存在に触れて感動し、そこからどんどん引き込まれていったと思う。
私の大切な、無くしてはいけないはずの感覚野が死んでしまったのだ。そうとしか思えない。


1年と少し前、シロちゃんに初めてリプライを送った時を思い出した。
10ヶ月前、ニコニコ超会議に行き、感動した勢いで筆を執ったことを思い出した。
8ヶ月前の清楚の日を思い出した。6ヶ月前の生誕祭を思い出した。よみうりランドを、超パーティーを、年末年始を思い出した。


目頭が熱くなってきた。
ちょっと、疲れているのかもしれない。


人生は長く、地球の寿命はもっと長い。観測可能な宇宙は、地平線はきっとどこまでも広がっている。
しかるに私が修士論文を書いていたのなんてたかだか1ヶ月くらいであり、全体から見れば誤差みたいなものである。

私は好きなものを失いたくはない。
ちょっと一旦休憩して、ちびちびと追いつつ、またパッションが湧いてきたら改めてファンとして追いかけなおそうと思う。


過去の自分との向き合い方は、もう学んできた。
おとなになっても応援するって、一方的だけど、約束してしまったからには、私はシロちゃんを応援し続けたいし、追い続けたいのだ。



このブログはフィクションであり、本記事の内容は実在の人物、団体、筆者とは全くの無関係であることを付記しておきます。