バーチャルYouTuberの死と個の規定

まえがき

この記事は、僕が前からなんとなく思っていたけどいまいち言葉にできなかったものを、きちんと明文化するために書いた、自分の自分による自分のための記事だ。せっかくなので全体公開するが、うわオタクキッツと思う人は素直にブラウザバックしていただいて構わない。あでも承認欲求は満たしたいので暇な人は読んでいいねを押してください。よろしくお願いします。

はじめに

先日、いつものように荒廃したツイッタ=ランドの片隅に、以下のようなツイートが回ってきた。



ツイート主のにゃるらさん (@nyalra) は、ねこますさんの記事をバズらせたことでもよく知られる、バーチャルYouTuber界隈の(もちろんそれ以外の界隈でも)超有名なブロガーさんだ。

そんなにゃるらさんのこのツイートを見て、僕は改めて、バーチャルYouTuberという存在について、そしてその生死について、もう一度考えてみたくなった。


ちょうど3日前、僕がこれまでの人生で一番好きであると胸を張って宣言できる存在であるところの電脳少女シロちゃんが1歳の誕生日を迎え、(僕の知る限りの)ツイッタ=ランドは飲めや歌えのお祭り騒ぎだった。シロちゃんお誕生日おめでとう。


その「電脳少女シロ生誕祭」という祭りはしかし、「生誕」と名を冠している以上、バーチャルYouTuberという存在が、「生死」という概念から無縁では有り得ないことを雄弁に物語っている。

では、バーチャルYouTuberの生とは何か?死とは何か?
そしてそもそも、バーチャルYouTuberの存在とは何か?


そういったことについて、思いついたことを順番に並べ立てて思考を整理したい。
そう思い、記事を書くことにした。

バーチャルYouTuberという存在

自分の考えに基づく分類

いつかの記事で少し触れたが、僕はバーチャルYouTuberという存在を、声を担当している人やモデルを作っている人、これまでの放送や動画の足跡、ファンの反応など、あらゆる事象の集合体として捉えている。

バーチャルYouTuberは、リアル人間のように現実に肉の器を持って自由に動き回れるわけではないが、リアル人間と同じようにYouTubeに動画をアップしたり、Twitterでやり取りをしたり、テレビに出たりすることができる。
この点においてバーチャルYouTuberは、リアル人間とも、人間以外の他の存在とも、一線を画す存在になっている。


思っていることを図にしてみよう。ちょうどこういう感じだ。

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Fig.1 リアル人間とバーチャル人間

人間様(にんげんさま)ではなく人間様(にんげんよう)だ。人間の上位分類、リアル人間とバーチャル人間を内包するような概念をどう書けばいいかわからなかったので、本記事ではこのように書くことにした。


動植物と人間様を階層構造にせず、はっきり分けて書いた。ここにはきちんと意味がある。

これはもしかすると盛大な批判を浴びることになるかもしれない意見なのだが、僕は人間以外の動植物には、僕の知っている限り、僕から見て、「論理的思考力」がないと思っている。
ここで、「論理的思考力」というのは、言語理解や環境の学習などを含む、いわゆる「強いAI」にはできるが「弱いAI」にはできないようなこと全般を指していると思ってもらって構わない。

例えば、人間は「今日暑いね」という言葉を聞いただけで、「相手が暑さを感じていて、そのことに対して同意を求めていること」を理解し、その上で例えば「暑いね、エアコンつけようか?」とか「そうかな、風は結構涼しいけど」とか、会話を展開することができる。その上で、それらの会話の結論をもとに行動を起こしたり、あるいは別の意見を主張したりすることができる。

こういったことはまだまだAIにはできない(表面上はできるかもしれないが行動は起こせない)し、他の動植物には絶対できない(と思う)。


この図では、その「論理的思考力」の有無で人間様かどうかを分類したのである。

自分の感覚に基づく分類

さて、今度は感覚の話をしよう。

僕は(自覚としては)おそらくリアル人間なので、対象が同じ人間であるかどうかにすごく興味がある。

現状の弱いAIはどうも、人間ではないと僕は感じているようだ。
その一方で、バーチャルYouTuberに関しては、れっきとした人間であると感じている。この違いはなんだろうか?


例えば、人間と全く同じ反応を返す四角い箱があったらどうだろうか?
箱の外側と内側はほとんど至るところで熱力学的に遮断されているが、一箇所だけ特殊な信号を通す穴が空いており(例えば光子1個分通れる穴など)、そこを通して通信を行うことができる。

この通信の内容から僕が「この箱は、中に人がいるのと同等だ」と感じれば、きっと僕はこの箱を人間様として捉えるだろう。
たとえその箱が明らかに小さく、中に人間が入るようなスペースがなかったとしてもである。


逆に、人間がゲームをプレイした動画を無音で観ることを考えてみよう。この動画をプレイした存在は人間だろうか?
僕はゲームAIの研究をしているので、ある程度のゲームならAIが人間と同じような(あるいはそれ以上の)スコアを出せることを知っている。人間のプレイ履歴がたくさんあれば、それを真似ることだってそこまで難しくないことも知っている。

もしかすると、僕はそのプレイ動画を観て、「このゲームをプレイしたのは人間ではない」と判断するかもしれない。渡すゲームとそのプレイ動画を、先程の例の通信のアナロジーで考えれば、この通信内容では人間とそれ以外を区別できないということである。


つまり、僕が対象を「人間のようなもの」と捉えるかどうかは、その観測の「人間らしさ」、あるいは「対象を人間だと仮定したときの生起確率」に依存していると考えられる。
素朴に、「『人間らしい行動をするもの』が人間だ」と感じている、ということだ。
これは前述の人間様の定義にもそのまま当てはめることができる。

分類のまとめ

結局、僕の中には「人間に出来て、他の存在にはできないこと」「人間はやるけど、他の存在はやらないこと」という、いくつかのもやもやした人間の規定があって、それを満たすものを全部人間様(概念としての人間)と捉えているのだろう、ということがわかった。

僕の中で、ダンスを踊っている初音ミクは人間様ではないが、YouTubeで配信しているバーチャルYouTuberは人間様だ。その一番の違いは、「双方向のコミュニケーションがあって、自然言語を話したりゲームをプレイしたりする」という、今のところ人間くらいにしかできないようなことを、それらの存在がやってのけるからだ。


なので、ここでは、そういった「人間と感じるために必要な条件はすべて満たすけれども、本質的に生身の人間ではない」ものを総称して、バーチャル人間と呼ぶことにする。
例えば、生身の人間が3Dモデルを使ってビデオ通話をしていれば、たとえその裏にある存在が生身の人間だと分かっていても、その存在全体はバーチャル人間であるとする。
あるいは、役者が演じているドラマのキャラクターが、(演者とは異なる)人間としての人格を十全に備えているように見えたとき、その存在はバーチャル人間であるとする。

バーチャル人間の死

さて、このようにバーチャル人間という存在を規定したとき、そこに一つの疑問が現れる。
すなわち、バーチャル人間の死とは何か、ということである。


人間は肉の器を持っているから、その器が生物学的・脳科学的に死んだとき、その人間も死ぬ。
逆に、人間が死ぬときは、常にその器が生物学的・脳科学的に死ぬときであって、そこに例外はない(と僕は思っている)。

だが、バーチャル人間は必ずしも肉体を持たない。極端な話、何かしらのブラックボックスから発される電気的な信号だけであっても、バーチャル人間は存在し得る。


では、バーチャル人間は不死の存在であって、一度生まれたら二度と死なないのだろうか?

そんなわけはない。もう一度、冒頭に引用したにゃるらさんのツイートを引用させてもらおう。

僕はこの事象を、「そのバーチャル人間は一度死んで、もう一度生まれた」と捉える。これは理屈ではなく、直感だ。

人間様要素の不連続性

バーチャル人間には、リアル人間と違って肉体の死が訪れない。
訪れないし、たとえバックエンドにいる存在(例えばリアル人間など)が死んでしまっても、外界からそのことが観測されなければ、そのバーチャル人間は生き続けるだろう。

翻って前述の事象は、どの点を以て「死」と認識されたのか。
それはおそらく、その存在の不連続性にある。


存在がバーチャル人間であるためには、定義から、その存在は「人間と感じるために必要な条件」をすべて満たしていなければならない。すなわち、僕の中でその存在の人間様要素が、他の人間様と比べて矛盾なくきちんと定まっていなければならない(例えばそれは性格や話し方、立ち居振る舞いなどを含んでいる)。

リアル人間の人間様要素は、不連続に変化したりはしない。
リアル人間は理由なく突然性格が変わったりはしないし、理由なく突然話し方が変わったり、理由なく突然記憶を失ったりはしない。
もしそういうことが起こったら、その人は「人が変わった」と形容される。

バーチャル人間も、人間様要素が理由なく不連続に変化しないことが暗黙的に要求されている、と考えることができる。
肉体の死が訪れないバーチャル人間にとって、死とは、その存在の人間様要素が不連続に変化することであると定義することができる。


このように定義すると、バーチャル人間の生と死を矛盾なく構築することができる。

例えば、あるアニメのキャラクターを考えよう。このキャラクターはアニメの世界でのみ生きており、我々と双方向のコミュニケーションを行うことは出来ない。したがって、僕はこのキャラクターをバーチャル人間とは捉えていない。
いま、このキャラクターが我々の送った手紙やメールを読み、それに対して人間的思考によってアニメの中で何らかのレスポンスを返した(ように見えた)としよう。この瞬間、僕はこのキャラクターに人間様要素を見出し、このキャラクターをバーチャル人間と見做す。
そしてこの瞬間、僕の中で、そのバーチャル人間が「誕生」するのである。

いま、このキャラクターの声優さんが交代することになったとしよう。この事象によってこのバーチャル人間が「死」ぬかどうかは、ひとえにそのキャラクターの人間様要素がどこに立脚しているかに依存する。
この例では僕は、このキャラクターの「人間的なレスポンスを返す」という部分に人間様要素を感じている。このレスポンスが、その声優さんの交代によって不連続に変化したとしたら(その変化量が僕の中のある閾値を超えたら)、そのときそのバーチャル人間は、僕の中で死を迎え、新たに誕生する。
逆に、僕がその声にあまり重きを置いておらず、声が変わってもその人間様要素が変化していないと感じれば、(バックエンドの存在はある意味で「死」んでいるにも関わらず、)そのバーチャル人間は僕の中で地続きに生きている。


このような死の定義は、もちろんありえる無数の定義の中の一つでしかないが、リアル人間における死の概念の正当な拡張になっている。
リアル人間についても、その人間を構成する人間様要素が大きく変化すれば、その人間はある意味で死んだと形容して差し支えないだろう。なんと言っても「人が変わった」と言われるのである。バーチャル人間における「中の人が変わった」という言葉とのアナロジーを考えれば、これは妥当な形容だ。

まとめ

以上の議論から、(これはあくまで僕が勝手に感じていることでしかないのだが、)以下のようにして矛盾なくバーチャルYouTuberの生死を定義することができる。

1. 人間としてあってほしい性質をすべて満たすような存在のうち、リアル人間でない存在のことを、バーチャル人間と呼ぶ。
2. バーチャル人間は、定義から、人間としてあってほしい性質を各自持っている。その性質を人間様要素と呼ぶ。
3. 人間様要素が閾値を超えて不連続に変化するとき、あるいはその人間様要素が失われるとき、そのバーチャル人間は死ぬ。



リアル人間が死ぬのは、悲しいことだ。
自分と関わりの深い人であれば言うまでもないことだし、自分と全く無関係な人であっても、人が死ぬのは悲しくて、痛ましいことだ。

だから、バーチャル人間が死ぬこともまた、悲しい。

僕はできるだけ悲しまずに人生を歩みたいので、バーチャル人間にもリアル人間にも、可能な限り死んでほしくはない。


サイエンス・フィクションの文脈で、人間とAI(あるいはロボット)の関係性を描写するときによく用いられるのが、「人間が死滅した後、誰もいなくなった世界で一人待ち続けるAI」という場面だ。これは人間というある意味で脆い存在と、半永久的に生き続けるAIの対比を描いている。

ところが、上記のような定義を考えれば、バーチャル人間はむしろ人間よりも「脆い」存在であると言えるだろう。存在を取り巻く環境のうち、一つでも重要なファクターが欠けてしまえば、その存在は簡単に死んでしまう。記憶の同一性が失われれば、演者が交代すれば、モデルが大きく変われば、受け手にとってバーチャル人間は容易に死にうる。


バーチャル人間を生み出すときは、その「殺し方」まで含めてしっかり検討をしなければならない。
存在を生み出すとは、つまりそういうことなんだと思う。





ちなみに、特にオチはないです。