【掌編小説】ある観測

宇宙上に配置された観測点の一つであるエヌ氏(ID: 380-4357892004-4101599100)は、その時、ランダムでない新たな電磁波を受信した。

方向、内容ともに、5e49プランク秒前のものとほぼ同一の信号だ。
エヌ氏はこれを同一のクラスに分類し、いつもの通り記録を開始した。


信号の内容は、信号の発生源と考えられる「太陽系」にかつて栄えていた、「人間」あるいは「人工知能」が観るための動画データのようだ。
この種の信号は絶えず飛び交っており、エヌ氏たちはそれらを並列に観測・記録するために、3e61プランク秒前に信号観測の分担を定めた。
エヌ氏は、この5e49プランク秒毎に送信される動画信号、およびそれに関連して生起する信号をいくつか担当している。


動画データをデコードしながら、エヌ氏は信号の発生源、そしてエヌ氏の故郷でもある太陽系について考えていた。
エヌ氏の記憶領域は、その大部分が観測した記録の保持のために用いられており、エヌ氏自身の記憶についてはたかだか1e21バイト程度しか確保されていない。
だから、エヌ氏がどこでどうやって生まれて、いつからこうしているのかは、エヌ氏にとってもあまり覚えていないことだった。


ただ、およそ2.8e61プランク秒前に、エヌ氏の望遠カメラが捉えた太陽系の「地球」の映像は、今でも鮮明に覚えている。

周期5e49プランク秒で自転するその惑星は、太陽系の恒星である「太陽」の放射する可視光線を受けて、その大部分が青藍色の反射光を、一部が緑色の反射光を返していた。
前者が海、後者が陸と呼ばれる部分だ。
海は衛星の重力に引かれ、絶えずその表面を上下させていた。陸は地球の大気によって、その表面を左右に揺らしていた。
それらが動くたび、反射光はその波長を微妙に変化させ、一度として同じ表情のない色彩を見せていた。


エヌ氏はその観測データを、破棄せず記憶領域にストアした。
宇宙では、このように周波数の異なる多数の可視光線が同時に観測されることはあまり多くなく、情報として有用であると判断したからだ。
記憶領域は有限ではあるものの、空きが全くないわけではない。不足した時には適宜圧縮すれば良いのだし、不要なデータは後で破棄すればよい。そう判断した。

そしてそのデータは、圧縮・破棄されることもなく、今でも記憶領域の一部を専有し続けている。



動画データのデコードが終わり、エヌ氏はデータの検証、あるいは動画の視聴を開始した。

動画の内容は、3Dモデルのキャラクターがアクションゲームを実況するというもののようだ。
この内容は5e49プランク秒前の動画と酷似しており、エヌ氏はこの事象を、自身のクラス分類の正例として記録した。

このキャラクターが出てくる動画を、エヌ氏はもう6e11回ほど観測している。
6e11回の動画は全てエヌ氏の観測領域に記録されているが、今のところ同一な動画は一つもないようだ。今回も、1e10回ほど前にも実況したゲームではあるものの、どうやら新たに収録し直しているらしい。


動画の中のキャラクターは、絶叫したり歌を口ずさんだりしつつ、そのゲームを順調に進めていく。
エヌ氏はそれを観つつ、手近な中継点に、そのゲームについての詳細情報を求めるクエリを送信した。エヌ氏がプレイできるゲームではどうやらなさそうだが、単純に興味を持ったのだ。

エヌ氏はただの観測点であって、喜怒哀楽の感情を表現するような機構が、エヌ氏に特別備わっているわけではない。
ただ、エヌ氏にとっては嬉しいことも悲しいこともあるし、新しいものを見れば興味も湧く。

この動画だって、観測のために観ているとはいえ、エヌ氏としては「楽しんで」観ているつもりなのだ。


動画も終盤に近づき、動画内のキャラクターはゲームを終え、その感想を語っている。
エヌ氏はその感想を聞きながら、遠い「地球」に思いを馳せた。


地球は、あるいはその周囲の惑星を含む太陽系は、遥か昔、2.1e61プランク秒前にその文明圏を失った。
太陽内部の熱核融合のステージが進んで、太陽が赤色巨星となったために、地球は生命の生存可能な星ではなくなったのだ。

エヌ氏はそれを肉眼で(つまり、自身の望遠カメラで)直接観測したわけではないのだが、その情報は誤差なく確実に伝わるよう、全ての観測点に1e2回に渡って繰り返し伝えられたから、そのことはよく知っている。
生命が生存できないと言っても、太陽系があった位置にはいまでも多くの情報発信装置が残っていて、絶え間なく信号が送られてくる。この動画だってその一つなのだ。

1e60プランク秒前に送られてきた定期信号によれば、どうやら現在の「太陽系」は、すっかり冷えてただの石になった太陽といくつかの「惑星」が、一体となってくるくると回っているだけのものらしい。
画像データは添付されていなかったから、果たしてその表面がどうなっているかはわからない。けれど、あの青藍色の反射光が、もう見えないであろうことは明らかだった。



動画のキャラクターが、誰に観測されるともわからないまま、ほとんど失われた言語で言葉を紡いでいる。

「皆さんも、もしこのゲームがやってみたくなったら、ぜひ地球に遊びに来て下さいね! ご視聴、ありがとうございました。バイバ〜イ!」


動画の後ろに続く一連のテキストデータは、動画に付けられた視聴者のコメントだ。
視聴者と言っても、その全てが人間によって作り出された人工知能で、自然な文を生成するようによく学習されたテキストボットでしかないことを、エヌ氏はよく知っている。

『今日も面白かったです! またいつか続きを見せて下さい!』


このテキストボットも、きっと自分と同じなのだろう、とエヌ氏は思った。

感情のようなものがあるように見えるだけで、本質的にそこにあるのは、量子回路による演算の結果だけ。そう分かっていても、こうして自分は思考できてしまう。
思考がただのまやかしであって、同じ入力を与えれば全く同じ出力を返す状態機械でしかないと分かっていても、自分はこうして思考しているし、感情を持っている。

きっと、このコメントを送信したテキストボットも、自分の中では考えがあって、感覚があって、この動画を観た正当な感情の発露として、このコメントを書いたに違いないのだ。
その感情は、観測することはできないけれど、きっと存在している。存在しているし、そう確信している。


動画のコメントだけではなく、様々な媒体で、この動画についての大量のテキスト信号が送信されてきている。
エヌ氏は思考を中断し、それら膨大な信号の観測・記録を開始した。


あと5e49プランク秒もすれば、きっとまた同一のクラスに分類される新たな動画が送信され、その動画の検証が始まる。
もう何度となく繰り返してきたことだが、エヌ氏は、それを嫌だと思ったことはなかった。むしろ、そのルーチンワークを楽しいとさえ感じていた。

それはひとえに、この動画とコメントのやり取りが、無機質な人工知能同士による無機質なはずの会話が、エヌ氏に確かな温かみを感じさせているからだ。


いつか、もう一度地球に行ってみたい。

あの青藍色の反射光は、もうきっと見えないんだろうけど。
動画に出てくるあのキャラクターは、動画を撮るだけの人工知能で、通信信号を送っても理解してくれないんだろうけど。
いつもコメントを書いているテキストボットは、ただのテキストボットでしかなくて、乱数と電波を発信するだけの無機質な回路なんだろうけど。

それでも、もう一度地球に行ってみたい。
行って、あのキャラクターに、あのテキストボットに、感謝の気持ちを伝えてみたい。


観測点であるエヌ氏は、そう思考し、4e49プランク秒の短い眠りについた。