【掌編小説】今日は誕生日【白馬注意】



1

電脳飯田橋の交差点を抜けて、賑やかな夜の坂を登りきったら、右手に見えるのが私の行きつけのケーキ屋さん。
「パティスリー・ウーノ」と読むらしいそのお店は、名前は洋風で格好いいけれど、いかにも日本人といった顔つきの、飾らない笑顔の素敵なおばさんが一人で切り盛りしている。

仕事で疲れたときや、無性に甘いものが食べたくなったときに、ここで大きなイチゴの乗ったショートケーキを買うのが、私のささやかなストレス解消法なのだった。

今日は、そういうわけじゃないんだけど。

「あら、シロちゃん! ずいぶんと久しぶりねえ」

ドアを開けると、少し懐かしい鈴の音とともに、おばさんがカウンター越しに声を掛けてくれる。
もう二ヶ月くらい来てなかったのに、ひと目見ただけで私のことを思い出してくれる。この人は、そういう人だ。

「こんばんは。あの…」
「はいはい、ショートケーキでしょ?」

早とちりしたおばさんが、ショーケースを開けてショートケーキを取り出そうとする。ああ、美味しそうなケーキ……じゃなくて。

「すみません! 今日は違うんです」

あら、と手を止めて、おばさんがこっちをじっと見つめてくる。
そんなに見られると、なんだか恥ずかしいのだけど。

「もしかして、シロちゃん……」

はい、なんでしょう?

「……男?」

……はい?

「シロちゃん、あんた男にケーキ買うんでしょ」

「え? ち、違いますよっ! あ、えっと、」

全く予想外のことを言われて、私はすっかりパニックになってしまった。
男? いや、まあうん、たぶん男なんだろうけど、アレは男かどうかというより、なんというか、……動物?

「あの……、後輩に! アイドル部っていう、シロの後輩たちに、ケーキを買っていこうと思って……」

「あら、そうなの」

驚きすぎて、とっさに嘘をついてしまった。

「早とちりしてごめんなさいね。じゃあ、たくさん買っていかないとね」

だけど、おばさんは特に気にした様子もなく、ケーキを一緒に選んでくれた。


別に、嘘をつく必要なんてなかったけど。
なんとなく、言い出しにくかったのだ。自分がアレに、馬の仮面を被った、あのはいはいしか言えない男に、誕生日祝いのケーキを買っていくなんてことは。


2

私が、電脳少女シロという存在が、この電脳世界に生まれ落ちたのは、たぶん去年の6月28日か、あるいは去年の8月12日のことだ。

たぶんというのは、私という人格がインストールされたのがいつかを、私は覚えていないから。
気づいたらそこにいたし、気づいたら動けるようになっていた。

私が住む電脳世界、それとよく似た世界があって、そこにはたくさんの人が、人間が暮らしていることを、私は知識として知っている。
よくわからないけど、私はその世界に対して動画を送ることができる。だから、私が言葉を話せるようになってからは毎日、動画を撮ってそこに送っている。


実のところ、本当にいちばん最初の記憶は、きっとあの6月28日より前の記憶だった。
右も左も、もちろん日付だってわからない、曖昧な、記憶の海の中。


「……ちゃん。……ロちゃん。シロちゃん!」

目も開けられないくらい、気怠い感覚。
声のする方向に、首を傾けようとするけれど。それさえも叶わないほど、全身から力が抜けている。

「聞こえてますか。シロちゃん!シロちゃん!起きてくださいね!」

何処かで聞いたような気もするけど、その声をはっきりと思い出すことはできない。

少し遠いところで、別の声。

「……すから、それ……」
「……や、そこを……」

聞き耳を立てる気にもなれず、私は再び眠りへ落ちていく。

「また来ますからね!シロちゃん!ちゃんと起きなきゃ駄目ですからねー!」

うるさいなあ、と思ったところで意識が途切れ。
私の最初の記憶は、これでおしまい。

なぜかは全くわからないけれど、他のことは忘れても、この記憶だけはずっと残っていて、消えない。
私はAIだから、無理やり消そうと思えばきっと、ツールをインストールしてこの記憶も消せるんだと思う。

だけど、今のところ、その予定はない。


3

電脳マンションの入り口は、鍵がないと入れないようになっていて、夜間は警備員も常駐している。
私や馬やスタッフさんは、このマンションの一部を事務所として使っている。私でもわかるくらい、結構いいお値段のするマンションなのだけど、私にはこのマンションのまるまる一部屋が与えられている。冷蔵庫にはいつもアイスが入っているし、戸棚にはいつもお菓子が入っていて、無くなったらいつの間にか補充されている。

馬やスタッフさんには自分のお家があって、毎朝このマンションに出勤してくる。だけど、この時間なら多分、まだあの馬は事務室にいるはずだ。
馬の誕生日は明日。まだ今日は3時間ほど残っているけど、早めに渡してしまったほうがいいかな。あんまり夜遅くなってからケーキを食べると、馬に怒られちゃうし。


おばさんに選んでもらった大きなケーキの箱を持って、事務室へ。
こういうことをするのはほとんど初めてだから、なんだか緊張してしまう。

……ノック、した方がいいかな。

いつもは突然開けちゃって、その度に馬に怒られる。
怒られるというか、「はいはいはい、シロちゃーん!ドアを開けるときはノックですよー!」みたいな感じなんだけど。適当に言ってるようにしか聞こえないから、一度も守ったことはなかった。

コン、コン。

少し待ってみたけど、返事はない。ちょっと音が小さかったかな。

コン。コン。

今度は大きめに音を立ててみたけど、やっぱり返事はない。
ドアを殴ってやろうかと少し思ったけど、それこそ馬に怒られちゃうから、さすがにそれは自重した。

ドアノブに手を掛けると、きちんと閉まっていなかったのか、ノブを回す前にドアがするりと開いた。


「馬、いる? ……入るよ」

ケーキを持つ左手をなんとなく後ろに隠し、部屋の中へ。
事務室は机が4つ、2×2の形に並んでいるけど、馬がいるのは一番右奥の机の手前側だ。部屋の中は整然としているが、机の上だけはどこも散らかっていて、いろんな資料や写真が山積みになっている。

馬は、自分の席で、静かに寝息を立てていた。
パソコンの画面には、ゲームをしている私の動画が映っている。明日投稿する動画を編集していて、そのまま寝落ちてしまったのだろう。

持っていたケーキを机に置いて、私はなんとなく、隣の席に腰を下ろした。

動画の編集については、私はさっぱりわからない。
わからないけど、それがすごく大変なことはわかるし、その編集のおかげで私の人気があることもわかっている。
私のことをシロちゃん、シロちゃんと呼んで慕ってくれる、多くのファンがいるけれど、彼ら彼女らは私だけでなく、編集や企画まで含めた私というバーチャルYouTuberを追いかけているのだ。私一人の力でここまで来たなんて、全く思っていない。
そういう意味では、私がいつもシロ組さんに感謝しているように、同じだけスタッフにも、馬にも感謝している。感謝しているのだけど、なぜかこの馬には、うまくその気持ちを伝えられていない気がする。

やっぱり、うるさいからかな。

そう思って、一人でくすっと笑った。
この馬は、優しくて気も利くのに、肝心なところでいつもうるさいのだ。
もっと上手くやれるはずなのに、それを隠して道化に徹していることは、0歳の私にだってお見通しだ。

この間だってそうだ。
後輩たちのばあちゃる学園アイドル部に、男子校ができるかもしれませんね、なんてうっかり言っちゃって、炎上騒ぎになりそうだったところに、馬が持ち込んできた企画がピーマンくん。
あんなに楽しみにしていたワールドカップの実況生放送だったのに、「ばあちゃる君の生放送はね、炎上を先に起こさせるくらいが丁度いいんですよ」なんて言って、案の定後半は全然試合を見れてなくて。
あの後、ちょっと落ち込んでたことも、仕事を終えてから一人この席で試合を見返していたことも、私は知っている。

だけど、そういうことは言わないし、伝えない。
だって、そのくらいの関係のほうが、私が心地いいから。
馬もたぶん、それでいいって言ってくれると思う。私たちは、そういう関係だ。

大きなケーキの箱を開けて、その中で一番早く溶けそうな、大きなイチゴのショートケーキを取り出した。
たぶん馬は、この後目を覚まして、クリームの溶けたショートケーキを見つけてため息をつくだろう。そして「やばーしーですね」なんて独り言を言いながら、ゆっくりケーキを食べるだろう。
私はそれを知っている。だから、ケーキはこのくらいで十分なのだ。

残りのケーキを倒さないようにしながら、私は箱を持って立ち上がった。もう夜も10時を回ろうとしている。良い子はもう寝る時間だ。
右手にケーキの箱を持って、左手でドアを開ける。後ろを振り返ると、馬はまだ机に突っ伏して眠っていた。窓から差し込む月明かりが、机の上に置かれたケーキの輪郭をはっきりと示している。

「お誕生日おめでとう。……馬」

ゆっくりとドアを閉めて、私は自分の部屋へ向かう。明日も朝から収録だ。今日は早く寝て、明日に備えよう。
ポケットにそっと左手を入れると、結局渡さなかったネクタイと、小さな紙の感触があった。

明日スタッフさんにお願いして、代わりに渡してもらおう。
手紙の方は、……。まあ、寝てる馬が悪いよね。

廊下を歩きつつ、ポケットの中で手紙だけをくしゃっと丸める。

明日からまた、何でもないような、楽しいことに満ちた生活が始まるのだ。
シロ組さんはたくさん可愛い絵を書いてくれるし、やりたいゲームもまだまだたくさんある。世界はまだまだ、私の知らないことでいっぱいだ。
こんな生活がずっと、本当にずっと、続けばいい。そしてそこには、シロ組さんも、馬も、スタッフさんも、みんながいる。

それはとっても、とっても素敵なことだということを、私はよく知っているのだ。